思い違いをしてはいけない。
富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅のなかばで没落するであろう。
試練を堪え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくる。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
彼が自分を写してみてそこから立ち去ると、そのとたん、彼は自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞きいれて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない